2018年1月30日火曜日

友人への手紙


ハトシェプスト女王葬祭殿


ナイル川クルーズ


 ××さんへの手紙。
 
 旅行中はいろいろお世話になりました。またいつかお会いすることができれば幸いです。
 エジプト旅行を選んだ理由はいろいろあったのですけれど、その大きな理由の一つが、このナイル川クルーズを潮田益子というバイオリニストが好んでいたということを知っていたからです。エジプトに行くなら、是非とも、ナイル川クルーズをしようと思っていました、というか、ナイル川クルーズをしたかったからエジプトに行ったのかもしれません。
 潮田益子は71歳で白血病で死んでいます(1942-2013)、ボストンで。
 私は白血病を治療する医者としても働いていたので、高齢の急性白血病患者がどういった経過で死に至るのかは十分に知っています。高齢患者の場合は骨髄移植の対象にはなりませんし、かなり辛い経過を辿ります。
 1997年に彼女はバッハの無伴奏バイオリンソナタとパルティータ全曲を録音してCDを出しています。言葉では表現できないほど、そのバッハの演奏は素晴らしいものです。
 で、その彼女が、夫(アメリカ人のチェリスト)と共に何度か楽しんだというナイル川クルーズ。それを体験してみたかったから、そして体験できたから、楽しい旅でした。
 潮田益子は料理も好きで、娘の一人は料理研究家になったほどです。幸福な家庭生活、二人の子供、優しいチェリストの夫。そして夫と巡り合ってから48年後に彼女は死んでいます。
 何人かの(10何人かの)バッハの無伴奏バイオリンソナタとパルティータのCDを聴き比べていますが、彼女の演奏は他とは比較にならないほどの美しい情熱に溢れています。情熱がありながら、「健全」であり、幸福と悲哀がありのままに表現されています。生きてゆくことの幸福と悲哀、です。
 彼女が愛する夫と一緒に眺めていたであろうナイル川を、私も一人、ゆっくりと眺めてくることができました。
 ハトシェプスト女王葬祭殿では、ちょうど20年前にテロがあり、多くの観光客が殺されたところです。××さんが中国人女性と話をした、あの観光地です。20年前にあの場所で、10人の日本人が殺され、そのうち8人は新婚旅行のカップルでした。命乞いする日本人女性たちがナイフで次々に殺されていったという記事を読んだのを覚えています。新婚旅行という幸せの絶頂で訪れた悲劇、を思い出しながら、私はあそこを歩きました。
 数千年前の壮大な神殿、(恐らく)数億年前の地層の隆起でできた崖、そしてその崖に棲みつき空を翔けているイワツバメたちの姿。20年前の事件と、そこを歩く私達。
 ふと、あとどれくらい自分は生きていられるのだろうかと思いました。
 恐らくは潮田益子も訪れたであろう数々のエジプトの遺跡を回りながら、死ぬその日まで、幸福と悲哀をしっかりと受け止めて、せめてそうして生きてゆこうと思いました。
 くだらない手紙を書いてしまいました。
 来月は××です。××旅行の感想はまた後日お送りします。