2018年3月3日土曜日

ヴェネツィア 宮下規久朗(岩波新書・2016)

P177~
 ヴェネツィアの女
 ヴェネツィアは、景観や美術だけでなく女性が名物であった。ヴェネツィア絵画やヴェネツィアガラスと同じく、ヴェネツィア女というのは西洋中に響き渡るブランドであった。女といっても堅気ではなく、商売用の女、つまり娼婦である。
 ヴェネツィア文化が最高潮を迎えた16世紀、ヴェネツィアの人口は17万人と過去最高に達したが(ちなみに現在はわずか9万人)、うち娼婦が一万人以上もいたという。当時の娼婦のもうひとつの中心地であったローマと同じく、男性の人口が女性のそれよりはるかに多かった。どちらの都市も、人目の一割近くが娼婦であったという。しかも、教皇庁のお膝元の宗教都市であったローマに対し、自由な空気がゆきわたっていた国際港湾都市ヴェネツィアは娼婦の楽園であった。しかもヴェネツィアでは、遺産が分散するのを避けるために結婚するのは兄弟のうち一人に限ることが多く、16世紀には約半数の貴族が生涯独身であったという。夥しい独身者だちと船乗りたちの性的欲求のはけロとして、膨大な娼婦の需要を生み出したのである。
 今でもリアルト橋近くのサン・カッシアーノ地区に「おっぱい橋(ポンテ・デレ・テッテ)」という橋があるが、この界隈は娼家が建ち並んでいたいわゆる赤線地帯であった。このような地域では、娼婦は窓辺に胸をさらし、表に足をたらしておくべし、という奇妙な条例があったという。ヴェネツィアでは男色が非常に流行していたため、人口が減少することを憂慮した政府によるもので、男色に走りがちな男性をしっかり誘惑して、自然の欲望をかきたてようとしたのである。しかも、娼家からの税は政府にとっては重要な財源であった。政府自体が娼婦たちの最大の元締めであったのだ。
 娼婦も階層が分化し、富裕層と交わり、その邸宅に出入りする高級娼婦はコルティジャーナとよばれた。教養人と対等に会話でき、詩や音楽に通じ、自らサロンを主宰することもあった。『好色浮世噺』といった好色文学でも知られる16世紀の文人ピエトロ・アレティーノは、1527年にヴェネツィアに移住し、ティツィアーノやサンソヴィーノと交わって活躍したが、生涯を独身で通した。彼の邸宅にはアレティーナとよばれる複数の女性が出入りしており、彼の友人ティツィアーノがヴィーナスやマグダラのマリアのモデルにしたのはこうした女性たちであった。コルティジャーナのうちには、ガスパラ・スタンパやヴェロニカ・フランコのように文学史に名を残した女流詩人もいた。ルネサンスのヴェネツィアでヌード美術が発生し、女性美を強調した官能的な美術が流行したことの要因には、ヴェネツィアが娼婦にあふれる歓楽の都であったことはまちがいない。


P226~

 ヴェネツィアの橋もまた異界への通路であり、運河をすべるように行き来する黒いゴンドラは、死者の霊を彼岸に運ぶカロンの渡し舟のようにも見えるが、ひとつひとつが橋のようなものである。1576年のペスト流行の鎮静化を感謝して七月の第三日曜日に行われるレデントーレの祭りでは、ジュデッカ運河にレデントーレ聖堂への舟を並べた橋が架けられ、盛大な祝祭が行われる。また、11月21日には、1630年のペスト終息を記念して、市民が舟橋によって大運河を渡ってサルーテ聖堂に参詣するサルーテの祭りがある。これら小舟による仮設の浮橋はまさに聖域ないし冥界にいたる回路であった。いずれも、ペストで死んだ人々を悼み、一日だけ彼らの世界に行って無病息災を願うための装置である。
 霧の深い夜などにこの町を歩くと、橋を渡るたびに徐々に夢の世界に迷い込むような気分にとらわれる。迷宮のようなこの都心では、今しがた通ったはずの橋を叫び渡ることも多い。彼岸に移ろうようでありながら、いつのまにか現実に舞い戻ってくる往還の感覚。かすかな水音とたちこめる死の気配の中で、この町の闇の奥、さらに自分自身の内面深くに入って行くようである。
 サン・マルコ広場の前のスキアヴォーニ河岸から海を眺めていると(7‐8)、ここが世界に開かれており、あらゆるものが出入りしてきたこの町が、あの世にさえ通じているような気がする。沖合いに見えるサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂のファサードは、あたかも彼岸の門のようにつねに白く輝いている。そして、観光客でごった返すカーニバルのときでさえ、仮面をつけて仮装した人々はすべて現実離れした冥界の住人のように見えることがある。
 ジョルジョーネらヴェネツィア・ルネサンスの画家たちが、水の都にありながら縁あふれる田園の理想郷を好んで描いたのは、単に水上に暮らすこの町の人々が陸地の田園に憧れたためだけではなく、つねに来世の楽園を夢見ていたためであったのかもしれない。ヴェネツィア共和国の統治の中心、ドゥカーレ宮殿の中央を飾る大壁画が、焼失したグアリエントのものも現在のティントレットのものも《天国》であるのは示唆的である。この町はまさに天国につながっているのだ。


 私にとってとくに思い出深いのは、家族で一年間ローマに滞在していた際に訪れたときである。ローマで退屈な日々を送っていた当時八歳の一人娘が、ヴェネツィアでは、イタリアには珍しかったディズニーストアがあったこともあって、にわかに明るくなった。海がきらめき、観光客でにぎわう町の雰囲気のせいもあったのだろう。
 娘はその後すっかりイタリアとは縁遠くなり、もう行きたくないと言っていたが、居間に飾られていた写真を見て、ヴェネツィアだけはまた行きたいと言っていた。しかし、22歳のときに突然がんにかかり、卒業旅行で友人だちと計画していたヨーロッパ旅行にも行けず、三年前に逝ってしまった。それ以来、私は拙著『美術の誘惑』(光文社新書)などにも書いたように、美術だけでなく、人生にもこの世にも意味を見出せなくなって現在にいたっている。
 終章でふれたように、ヴェネツィアという町は、幸福な者にはその幸福を、不幸な者にはその不幸を増幅させる町であるとツルゲーネフは書いている。「すでに自分の生涯を生きてしまった人、人生に打ち砕かれた人、そうした人はヴェネツィアを訪れても無意味である」と。私が幸せな気分でヴェネツィアを味わうことができたのは、前述の取材旅行が最後となった。このとき、地面に叩きつけるとつぶれては元に戻る丸くぶよぶよしたブタのおもちゃが町中の路上で売られており、娘にひとつ土産に買ってきたが、それはほこりをかぶって今も私の机の横に置いてある。あまり喜ばれなかったこのちゃちな土産も、今や貴重な形見になってしまった。そして先のツルゲーネフの言葉が思い出され、ヴェネツィアにはもう行けないと感じたものである。
 だが、ヴェネツィアのラグーナに娘の遺骨の一部を撒きたいと思い立ち、昨年のカーニバルの時期、妻とともにヴェネツィアを訪れた。その前年、インドのバラナシに行き、転生を願ってガンジス河に骸骨もしていた。ヴェネツィアでは、カーニバルの賑わいとは無縁な沖合いの島に建つサン・ジョルジョ・マッジョーレ聖堂の前の広場の階段から、ひと握りの遺骨を海に撒いた。そこはかつて娘が一人ではしやいで走り回っていた思い出の場所である。涙にかすんだ視界に、粉々の遺骨はいつまでも濃紺の海に白く漂っていた。

  ラグーナに流す我が子の遺骨には鴎集まり飛び立ちゆきぬ

(引用終わり)