2018年6月2日土曜日

John Ruskin 変質者と芸術論



 ホッパーの絵画の魅力を教えてくれたのは、Alain de Bottonの本、<The Art of Travel>である。この本の日本語訳は安引宏という正真正銘の阿呆がヒドイ誤訳を重ねたものとして出している。以前は・昔は、アマゾンの読者書評にも、この東大英文科卒の阿呆のヒドイ日本語を非難する書評がたくさん出ていたのだけれども、アマゾンの書評も出版社の意向を無視できないのか、それらは全て消去されていて、5つ星(!)の信じられないようなおかしな書評が載せられている。ボトンのこの本を味わうためには、英文で読むしかない。
 さて、話を元に戻して、この<The Art of Travel>という本では、何人もの芸術家(詩人や画家など)が取り上げられていて、ホッパーのみならず、ゴッホやキャスパー・デイビッド・フリードリッヒの絵に対しても私は開眼させられた。去年エルミタージュに行った最大の目的は、そこにあるフリードリッヒの絵を見るためだった。
 そしてこの本には、ジョン・ラスキンもまた大きく取り上げられている。

 以下は日本語ウィキのラスキン(1819-1900)の項目より引用。

1848年にエフィー・グレイ(Effie Gray, 1828年 - 1897年)と結婚する。ラスキンは精神的・経済的スポンサーとしてラファエル前派の画家たちを支援しており、その一人、ジョン・エヴァレット・ミレーと1853年にスコットランドを旅した際、妻エフィーとミレーが恋仲になってしまう。エフィは、夫の身体的理由によって実際の夫婦生活は無かったとして離婚を申し立て、1854年に離婚に至った。エフィーは離婚後すぐにミレーと再婚し、8人の子をもうけたほか、複数の絵画のモデルになっている。

最初はロンドンの労働者専門学校で教鞭をとったが、オックスフォード大学の教授職(1869年 - 1879年)に転ずる。オックスフォードではルイス・キャロルと親しくなり、キャロルによって写真を撮影されている。『不思議の国のアリス』のモデルであるアリス・リデルの美術の家庭教師もしていた。オックスフォードのラスキン・カレッジは彼の名にちなんでいる。父の死後、財産の相続を受けたが、社会主義者としての信条からその多くを投げ打って複数の慈善事業を行った。

ラスキンは1858年から、ある裕福なアイルランド人家庭の子供たちに美術を教えていたが、その中のひとり、9歳のローズ(Rose La Touche)に魅了される。ローズが18歳まで家庭教師を続けたが、彼女が16歳になると、何度も結婚を申し込んだ。しかし、宗教が違うことを理由に断られる。1875年にローズが27歳で急死したことが伝えられると、ラスキンは精神的に強いダメージを受け、しばしば発作に見舞われるようになった。亡くなったローズと会話するために、スピリチュアリズムの研究も始めた。

1878年、ホイッスラーの作品を酷評したことが原因で名誉棄損でホイッスラーから訴えられ、法廷闘争に巻き込まれる。ラスキンは敗北したものの、精神的な病からのものとして、賠償金はわずか1ファージング(4分の1ペニー)だった。ただし、この敗北によってラスキンは名を落とし、さらには精神活動の低下をうながした可能性もある。晩年は湖水地方の湖岸のブラントウッドに居宅を構え、定期的な文化講義を行なったり、文化財保護運動、ナショナル・トラストの創設などに関わった。

ラスキンの美術に関する考えは、一言で言えば「自然をありのままに再現すべきだ」ということであった。この思想の根幹には、神の創造物である自然に完全さを見出すという信仰があった。

また、ターナーの描いた裸婦画を「イメージを壊す」という理由で全て焼却処分してしまっている。
(引用終わり)

 最近読んだ本には以下のように記載されている。

『「名画の巨匠」謎解きガイド・日本博学倶楽部』PHP文庫(2016)
P65~
 ミレイの『ジョン・ラスキン』は、恩人であるラスキンを描いたものだ。ラファエル前派の手法にのっとり、自然のありのままの姿を描写した作品となっている。
 ミレイは、1853年にラスキンから肖像画を描いてくれと頼まれ、ラスキンに誘われてスコットランドヘと出向いた。背景に選んだ場所は、エジンバラの北西約50キロの地にあるグレンフィンラスの渓谷である。ミレイは、ラスキンとその妻エフィーと共にこの地に数カ月にわたって滞在し、ラスキンの肖像画を描いたのだ。
 しかし、この滞在が、ミレイとラスキンの人生を大きく変えることになる。
 スコットランドからロンドンに戻り、肖像画を描き上げた後、ミレイとラスキンの交友関係は断絶するのである。なぜ、二人の関係は終わったのか?
 原因はミレイの裏切りにあった。ミレイはスコットランドに滞在していた数カ月の間に、こともあろうにラスキンの妻エフィーと恋に陥ったのだ。しかも、その恋は一過性のものではなく、エフィーはラスキンとの離婚を考え、翌年四月に別居。結婚を無効とする裁判を始める。
 恩人の妻と不倫関係に陥ったミレイが悩まなかったはずがない。しかも、スコットランド滞在中は背景の描写に法力していたため、ラスキンの肖像部分はまだ完成していなかった。訴訟を巡る不倫の醜聞がラスキンの耳に入らぬはずはないのに、ロンドンに戻った後もラスキンは何食わぬ顔でミレイのアトリエを訪れ、モデルを務め続ける。単に気付いていないだけなのか、それとも自分に対する無言の糾弾なのか……。ミレイはこの絵を、そうした葛藤のなかで描きあげたのである。
 そして、この後、ミレイのラスキンに対する裏切りは、はっきりとした形をとることになった。七月にラスキンとエフィーの離婚が認められると、翌年、ミレイはエフィーと結婚。のちに8人もの子供に恵まれ、幸せな結婚生活を送った。
 ミレイはその後、絵本や雑誌の挿絵を描いて家族を養っていたが、壮年期に入ると、イギリス伝統絵画の担い手としての使命に目覚め、晩年にはロイヤル・アカデミーの会長にまで上り詰める出世を遂げている。
 ラスキンが走った禁断の恋
 では一方のラスキンはその後どうなったのか? じつはその人生はミレイとは対照的なものとなった。
 美術評論家としての道を歩み、名声を得ていたラスキンであったが、彼は禁断の恋へとのめり込んでいく。ラスキンは1858年から、ローズ・ラ・トゥシュという少女の家庭教師を務めていた。ローズはラスキンによく懐いていたが、交流が深まるなかで、ラスキンは知らず知らずのうちにこの少女に惚れ込んでしまうのだ。1861年の時点でその恋ははっきりしており、42歳のラスキンは30歳も年下のローズに必死で手紙を送り続け、ついには求婚まで行なって、ローズとその両親を戦慄させている。
 しかも彼は女性との行為におよぶことができなかったようで、エフィーとの離婚も「夫婦生活がない」ことが根拠となったらしい。ミレイがエフィーに出会った時、エフィーは処女だったというから、ラスキンは現代でいうロリコンであった。
 結局、ラスキンはその後再婚することなく、晩年の22年間は、狂気の発作を繰り返す日々を送った。
(引用終わり)

 つまり、ラスキンは、エフィーに結婚を申し込んだときには、自分が性的には役には立たない・不能であることを告白してはいなかったのだろう。エフィーにとって、それはある種の地獄だったであろうことは容易に想像がつく。ミレイと出会って、後に結婚し、8人の子供に恵まれたということは、ミレイこそがその地獄から自分を救ってくれた天使であったことだろう。エフィーの視点に立てばそれは「裏切り」でも「不倫」でもなく、<騙された不毛の結婚という牢獄>からの解放だったはずである。
 さらにラスキンは30歳下の少女に熱を上げ、執拗に結婚を迫り、結婚を拒否され、その後その少女が死んでしまうと狂気の発作とスピリチュアリズムに走ってしまう。
 ラスキンは、広い意味で、異常者である、変質者とまでは言えないとはしても。
 そしてこの異常なラスキンの<芸術論>なるものを、ありがたがっているのが、ド・ボトンであり、あるいはケネス・クラークであり、日本でも古くは小島烏水(横浜正金銀行)とか、あまたの自称芸術評論家たちが存在している。
 で、この変質者―ではない、異常者ラスキンが滔々と述べている芸術論を紹介しているのがド・ボトンである。
 変質者が描いた絵の価値と変質者の変質性は無関係、なのかもしれない。
 変質者の説いた芸術論と変質者の変質性は無関係、なのかもしれない。
 ただ私は、彼の書いた風景画論やヴェネツィア芸術論を、もう読む気にはなれない。昔読んだときに、そしてド・ボトンのラスキン賞讃を読んだときにも、異質なものを感じていたのは、この変質者(異常者)の異常性を直感的に感じ取っていたからかもしれない、と振り返ってみてそう思う。

 ケネス・クラークの評伝をまだ読んでいない。読む必要がある。