2018年8月4日土曜日

髙橋洋二 ユニマット ヴァン・ドンゲン


 先週の土曜日には旭川に行き、旭川美術館で開かれている<ユニマットコレクション展>を観てきた。ユニマットの会長、高橋洋二によって収集されたフランス絵画とフランス工芸(ルネ・ラリックのガラス工芸品)の展覧会である。


 以下はウィキより。

青山ユニマット美術館(あおやまユニマットびじゅつかん、英文表記:AOYAMA UNIMAT MUSEUM Chagall and Ecole de Paris Collection)は、東京都港区にあった美術館である。
オフィスコーヒーサービスのユニマットライフ等のユニマットグループにより運営されており、館長は、ユニマットホールディングの代表取締役社長高橋洋二が務めていた。
ユニマットグループが以前に運営していた箱根芦ノ湖美術館(2006年5月31日閉館)の所蔵作品が引き継がれており、マルク・シャガールをはじめとするエコール・ド・パリの画家たちの作品を中心に所蔵されていた。
発起人であり統括責任者の取締役副館長額賀雅敏が病のため2008年12月に急逝したため、美術館の企画運営に支障をきたしたことで、2009年(平成21年)3月31日をもって閉館した。
(ウィキよりの引用終わり)

 つまり、美術館が閉館して、そこにあった絵画や美術工芸品は、

<さまよえる美術品>
 となってしまったのである。この展覧会は巡回展であり、今年の10月から12月までの佐世保での展示で終了。終了してしまった後は、これらの美術品はオークションにでもかけられるのか、それともどこかの美術館に一括で寄贈されるのか、は、不明である。

 高橋洋二といえば、昔、宮古島に移住(?)したような記事を読んだ記憶がある。で、ネットで検索してみるとこんな記事があった。


https://ryukyushimpo.jp/news/entry-593861.html

宮古島市上野にホテルが開業へ 来月20日、ユニマット
2017年10月15日 09:56 琉球新報
 ユニマットプレシャス(東京、高橋洋二会長)14日までに、宮古島市上野に「ホテル シーブリーズカジュアル」を11月20日に開業すると発表した。330ヘクタールと広大な同社運営の「シギラリゾート」の中にあり、シギラビーチが近い立地条件を生かす。
 ホテルの延べ床面積は約6186平方メートル、地上6階建て。屋内外に席があるレストランや、野外プールを設けた。客室数は170室。価格は1人1室で1万4040円から(税込み)。2人1室は1人当たり7600円(同)。
(琉球新報からの引用終わり)


 このサイトの記事で、リゾートホテルの建物の写真を見て唖然とした。これだけの美術品を収集した「趣味の良いはずの人物」が関わったリゾートとはとても思えないほどの、芸術性も夢も何もない、泣きたくなるほど醜悪な建物が・まるで安物のマンションのような建物が、「リゾートホテル」と嘯いていたからである。

 でも、資産1000億円を超える人物の考えることは、私のような貧乏人とは違うのであり、理解できないとしても不思議ではないのだろう。この趣味の悪いリゾートホテルの建物群に美的センスというものが全く感じられないことには、何か別に深い理由があるのかもしれない。

 ユニマットコレクションには興味深いものが幾つもあった。

 多くの実業家・資産家が集めた美術品のコレクションを私はこれまで幾十も(いや、100は軽く超えるだろう)見てきたけれども、日本人のものとしてはユニマットコレクションはかなり良い部類に入る。そして、それらの貴重な作品たちが幽霊のように<さまよっている>ことが残念でならない。
 ヴァン・ドンゲンの「婦人の肖像」(製作年不明)も魅力的な絵である。ネットで調べると、何年か前に競売に出ていた作品であり、ユニマットが競り落としたのだろう。
 去年、アムステルダムのゴッホ美術館でやっていた特別展(The Dutch in Paris :1789-1914)の図録を買ったのは(とても重たいのに!)、その表紙に使われているヴァン・ドンゲンの絵が、あまりに素晴らしかったからである。この女性はドンゲンの当時の妻の肖像である。(ゴッホ美術館もクレラーミュラー美術館も中での撮影は禁止されている。)
https://en.wikipedia.org/wiki/Augusta_Preitinger




 ユニマットコレクションのヴァン・ドンゲンの「婦人の肖像」を、以下に図録からスキャンして載せる。
この作品はタッチから判断して、ドンゲンの初期のものだろう。だとすると、この「婦人の肖像」という作品のモデルはGuusである可能性が高い。





 図録の表紙に使われているのは、「The Blue Dress」というタイトル。146cmx114cmという大きな作品で、この絵の前に立ったときに受けた印象は....呆然とさせられるものだった。赤一色の背景、マントのように広がる赤黒い影、上向きになって半ば目を閉じ艶然と微笑む女性。青いドレスが若く健康で魅力的な肉体を線となってなぞり、腕と首には大きな宝石が輝いている。腰に当てた手、体の曲線、肉感的な唇はほんの少し開いていて白い歯が見える。頬のみずみずしさ、そして全てを見通し全てを受け入れ全てを楽しんでいるような不思議な眼差し。
 英語版のウィキには、ドンゲンのシニカルな言葉が掲載されている。しかしこれは、後年、上流階級の女性たちを描くようになってからの話でであり、1911年に描かれた彼の妻の「The Blue Dress」というこの絵には当てはまらない。

With a playful cynicism he remarked of his popularity as a portraitist with high society women, "The essential thing is to elongate the women and especially to make them slim. After that it just remains to enlarge their jewels. They are ravished."[12] This remark is reminiscent of another of his sayings: "Painting is the most beautiful of lies".

 ゴッホ美術館で開かれていた特別展の図録から、ヴァン・ドンゲンの「ヒンズー・ダンサー」をスキャンする。


 ヴァン・ドンゲンはこの最初の妻・Guus(愛称)と離婚することになるけれども、その理由は悲劇的なものだった。夏の休暇をオランダの家族の元で過ごそうと、Guusと娘のDolly(愛称)が里帰りした時期に第一次世界大戦ば勃発し、妻と娘は戦争が終わるまでの数年間、パリに戻ることができなくなってしまった。その間に、ヴァン・ドンゲンは社交界のある一人の既婚上流婦人・Jasmy Jacobと関係を持つようになり、結果的にそれが理由で妻と別れることになる。もっとも、Jasmyの紹介で上流社会に道が開かれ、ドンゲンには次々と肖像画の注文が入り、爆発的な人気を得ることになる。


 「ヒンズー・ダンサー」にしろ、「婦人の肖像」にしろ、そして「The Blue Dress」にしろ、これらの・そして他の女性像に共通しているのは何だろうか?

 一目見ただけで、ドイツ表現主義的画風だと判る下の作品、瞳を閉じて満足そうに男の方に腕を置く女性、その隣では肉感的な女性の尻を撫でる異様に大きな手の男性。猥雑な、しかしそれでいて何よりも「健全で自然な」男たちと女たちが描かれている。
 ヴァン・ドンゲンのこうした絵から感じ取れるものは・何よりも「The Blue Dress」の絵の前に立って感じ取れるものは、今こうして生きていることを心から歓んでいる情熱、である。
 しかしながら、ヴァン・ドンゲンは最初からこのような絵を描いていたわけではない。
 もともとは素描家、しかも、クロポトキンの本の装丁をしているような(オランダ語訳の本)、ゴリゴリの左翼・無政府主義者であり、素描も政治的・社会風刺的なものが殆どだった。



 その素描家時代の作品の一つが、これである。最初の作品。痩せこけた初老の男がバイオリンを路上で弾いて、恐らく物乞いをしている姿である。ゴッホ美術館で買った図録から、少し長くなるが引用しよう。






"The Dutch in Paris :1789-1914"

(chapter) Kees van Dongen:Social Engagement and Sensual Women in Montmartre
by Anita Hopmans (P207~)

In the course of 1901 he managed to get some drawings published in /La Revue blanche, edited by Félix Fénéon, and in /L'Assiette au beurre/-on Steinlen's recommendation. These were followed by more contributions to newspapers and magazines, including satirical journals and humorous papers. His first illustration, a drawing of a Parisian street musician (fig.190), was described in a Dutch newspaper as 'most simple in execution', but all the more telling in the depiction of 'the misery of life'. In September Van Dongen stressed in a letter that he wanted to work 'for the common good', 'for the people as a whole and not for a few deliberate or unwitting rogues'. Painting served 'luxury' and the market, and that 'at a time when one is surrounded by poverty everywhere'.This was why he drew in magazines. As a workman artist, Van Dongen mixed with working people. He had thoroughly enjoyed 'dragging around great heavy scaffolding, and climbing and scrambling' when decorating a reception hall for a party: 'wonderful, a job like that, and not so draining as churning out little paintings'. He lived 'ascetically',in a sparsely furnished apartment that was deliberately confined to the 'most primitive necessities', and preferred to dress like a labourer: 'work was the only thing that had value'. His frugal existence and his decision to pursue drawing for social ends also connected Van Dongen to the higher part of Montmartre, which according to an 1899 guide had 'no classic studios', and where even the streets rebelled against any regulation. It was a 'counterculture' at odds with the amusements in the /café-concerts/ and dance halls in and around boulevard de Clichy, which in 1896 Ibels had criticized as an industry that 'devoured millions'.


 不思議なものである。ここまで「労働者階級の立場に立ち、労働者のような生活を自ら好んでいた」画家が、20年後には上流階級の人たちの肖像画で巨万の(?)富を得て、毎晩のように派手なパーティーを繰り返す生活を送るようになるとは。しかも、ナチス時代のドイツに仲間の画家たちと招待を受けて旅をして(フランスがナチに占領されている時代)、”ナチ協力者”という”誤解”まで受けてしまうようになる。左翼無政府主義者が行き着く果てにここまで変化して・身を持ち崩してしまうことに、唖然とさせられる。

 1900年から1915年頃までの作品がベストで、後の時代の作品からは魅力が失われている。後年、ブリジット・バルドー(モンテカルロの隣人だったそうだ)を描いた絵もあるけれども、悪趣味といっていいほどの凡作になってしまっている。
 1911年の、このGuusの作品が、頂点だったのかもしれない。



 GuusとDollyを描いたヴァン・ドンゲンの作品も残されている。どれほど彼が妻と娘を愛していたか、この絵から読み取ることは容易である。しかし、第一次世界大戦が、彼らの運命を悲劇的なものにした。しかし、では、第一次世界大戦で悲劇的運命を迎えた人の数は幾らなのか? 何十万? いや、何百万、何千万かの人たちの運命を「悲劇的なもの」に変えただろう。ヴァン・ドンゲンとGuusは、その中の2人であり、それ以下でもそれ以上のものでもない。
 C'est la vie.


 The Blue Dressは、ヴァン・ゴッホ美術館の所蔵品である。アムステルダムに行けば、このヴァン・ドンゲンの傑作も展示されていることは多いのだろう。この絵の前に立つと、もう一度繰り返すけれども、感動で圧倒される。残念ながら、どのヴァン・ゴッホの作品よりも、<私には>このヴァン・ドンゲンの絵のほうが素晴らしいと思える。

 この絵の女性の歴史について知ったのは、日本に戻ってきてからである。1911年には33歳であり、当時6歳になる娘がいた。3年後に娘を連れてアムステルダムに里帰りした時に第一次世界大戦となり、夫と会えなくなり、4年後に再会したものの、夫であるヴァン・ドンゲンは上流社会既婚婦人であるJasmy Jacobと関係するようになっていて、やがて離婚。もっともヴァン・ドンゲンのほうも、Jasmyにやがて捨てられることになっていた。彼女が某将軍との結婚を願ったからである。Guus、このケルン生まれの元々はドイツ人の女性は、1946年にパリで67歳で死んでいる。以前には80歳を過ぎたドリーが父を語る動画がYouTubeにあったらしいが、今は見当たらなくなっている。
 それら全てを知らないでいながら、アムステルダムの美術館で、このGuusの絵の前に立ったときに私が
<この絵から与えられてものは・この絵が力強く圧倒的に伝えてきたものは>
 生きてゆく勇気、というものだった。
 明日何があるか判りはしない。どんな悲劇が待ち受けているのかもしれない。
 しかし、何が起こるとしても、昂然と顔をあげて、人生を生きてゆく。
 そんな勇気を与えてくれる絵、なのである。
 そしてそれは、実物のこの絵の前に立たないと決して感じることはできないものなのである。



https://mydailyartdisplay.wordpress.com/2013/03/06/kees-van-dongen-his-life-his-family-and-his-art/

In 1914, Guus took her daughter Dolly to Rotterdam for the summer to see their families. However the outbreak of World War I prevented them from returning to Kees in Paris until 1918.   In 1917, Kees van Dongen, whilst living alone in Paris, started a relationship with a married socialite, the fashion director  Léa Alvin also known as Jasmy Jacob.   She proved to be the conduit between van Dongen and the upper classes and through her introductions, came numerous portraiture commissions.  When Guus and Dolly returned to Paris it was not long before Guus heard rumours about her husband’s infidelity.  This proved to be the final straw in the break-up of their marriage and they eventually divorced in 1921.   Guus Preitinger died in 1946.

In 1938 he met Marie-Claire Huguen, who two years later bore him a son, Jean Marie.  At that time van Dongen was 63 years old !!   The couple finally married in 1953, and this new second family gave van Dongen new purpose, a new life. He carried on working on his portraiture work which was much in demand and he also continued with his illustrative work for books by the likes of Voltaire, Proust and Kipling.  The latter years of his life was spent with his family in Monaco where he died at home in 1968 at the age of 91.



Kees von Dongen関連の動画
https://www.youtube.com/watch?time_continue=348&v=wcM-3RuTNh0

フランス語のブログ
http://ppcaillou.canalblog.com/archives/2015/12/26/33120449.html
英語のブログ
http://artcontrarian.blogspot.com/2010/06/kees-from-anarchism-to-high-society.html



 ヴァン・ドンゲンの「左翼無政府主義信奉素描家時代」の、この飢えたバイオリン弾きの作品を見て、思い出したのは6月のギリシャ旅行である。ミコノス島でもクレタ島でも、少年たちが小さくて粗末なアコーディオンを弾いて、物乞いをしていた。
 アテネでもテッサロニキ(ギリシャで2番目の都市)でも、乞食は見かけなかったけれども、エーゲ海のこうした島では少年が物乞いをして地べたに座り込んでいる。
 2年前にアンコールワットに行ったときには、日の出を待つ大勢の観光客の中を、ほんの5、6歳のカンボジア人の少女たちが物売りをして歩いていた。観光客につきまとい、たいていは蠅のように手で追い払われるのだけれども、生活がかかっているのだろう、手に粗末な土産物を手にして懸命になって買ってもらおうとしていた。小さな彼女たちは、みな裸足で、世界中からやってきている観光客の中を埋もれるように小走りになりながら、悲しそうな声をあげていた。
 こうしたmiseryを、ヴァン・ドンゲンも初期の頃は描いていたのである。
 プラハの街には額を地べたに・石畳に押し付けるようにして頭を下げている乞食が何人もいる。ワルシャワの市場を歩いていると、老婆が紙コップを突き出してくる。ポーランドは社会保障も悲惨で、老人たちは困窮している。モスクワやサンクトペテルブルグでは乞食は見なかったけれども、黄金の輪と呼ばれる幾つもの地方都市に行ったときには、どの教会の前にも乞食が座って物乞いをしていた。アメリカでは(アメリカで!)、自動車が停まると物乞いがやってきて、ドライバーに紙コップを差し出す。まるで当然の権利のように、怒りを含んだ表情のまま、ブスっと、赤信号で停まった車の運転手の窓を叩く。もちろん、私のような観光客はバスの席からその光景を見下ろしているだけなのだが。ボストンにも退役軍人の若い乞食が座っていた。
 こう考えてくると、街を歩いていて乞食に遭遇しないのは日本ぐらいなのだろう。
 日本では乞食をする必要はない。河本準一が日本人に教えてくれたように、生活保護を受けて毎日酒を呑んでグータラできるのだから、路上に座る必要などないからである。

 富める者も貧しき者も、健やかなる者も病める者の、等しく、それほど長くなく、人生はやがて終わる。
 終わりがやがて来ると知っていても、悲嘆にくれることも薬物やセックスに溺れることもなく、昂然と顔をあげてこの人生を生き切る、ことを教えてくれるのが、この「The Blue Dress」であり、Van DongenでありGuusなのだと思う。
 またいつか、アムステルダムのこの絵の前に立つことがあるのかどうかは、知らない。
 ただ、この絵の前に立ったときの感動の余韻は、今も、そして私が死ぬまで、続いていることだろうことは、確かである。
 ここで一句

 やがて死ぬ その時までの 阿波踊り 

(私の先祖は徳島県出身なので)


PS Dollyのインタビュー・ドキュメンタリーは、まだYouTubeに残っていた。ここである。

https://www.youtube.com/watch?v=03bI3UVMe7s
 80歳のDollyは、オランダ語で話しているので、ヒトコトも理解できないけれども、ドキュメンタリーに挿入されている多くの写真を見ているだけでも楽しい。ヴァン・ドンゲンの再婚相手であるマリー・クレールの写真も出ていたので、資料としてアップしておく。
 デスマスクならぬデスベッドの、ドンゲンの写真も出ていた。91歳で死亡したドンゲンの遺体はミイラのように見えた。