2018年8月5日日曜日

フランツ・リスト


 今年中にトルコ旅行をする予定で、先日、ガイドブックを買いに街に出た。

 アフロディシアスという街(古代遺跡)についてのテレビ番組を見たことがあり、トルコで行きたいのはこのアフロディシアスとイスタンブール、そしてエフェソスだけである。6月のギリシャ旅行でエフェソスは観光したので、残る2つの街を観たいと思っていた。
 ところが、このアフロディシアスを訪れるツアーは少ない。去年、世界遺産に認定されたらしいけれども、それでも今年のツアーの中にこの観光地が入っているものは多くはない。それでもなんとかここに行くツアーを見つけ、そのツアーも催行決定となったのでガイドブックを買いに出た。
 ところが、JTBの<るるぶ>でも、昭文社の<まっぷる>でも、アフロディシアスについては一行たりとも書いてはいない。それもそのはず、どちらも4年ほど前に出たガイドブックで、その後改訂版を出していないのである。きっと来年あたりに出て、その中にはさすがに世界遺産のアフロディシアスを紹介していることだろう。
 アフロディシアスについて書かれていないガイドブックを買ってもしょうがないので、諦めて、ジュンク堂のその階(地下2階)をぶらぶら歩いていると、音楽関係の本を並べているコーナーに来た。そこの棚に並んでいた文庫本2冊が気になったのでそれを買って、家に戻り、一気に読んでしまった。


『裏側から見るクラシック作曲家』上原章江 P77~
 結局、一生独身で過ごしたリストだけれど、実は一人だけ本気で結婚しようとした女性がいる。リスト36歳の年、演奏旅行でキエフを訪れた時に出会ったカロリーネ・ヴィトゲンシュタイン侯爵夫人だ。リストの演奏会を聴きに行っていたカロリーネが、その演奏にいたく感激して多額の寄付を申し出だのが、二人が付き合うきっかけだった。カロリーネはもともとポーランドの大地主の娘で、ロシアのヴィトゲンシュタイン侯爵家に嫁ぎ、一女をもうけた。リストと出会った時は28歳で、夫との仲はすでに破綻し、別居状態だった。
 カロリーネはいままでリストが愛した女だちとはちょっと違っていた。それまでリストが深くかかわった女性たちは、誰もが認める相当の美女ぞろいだったけれど、彼女だけはそれほどでもなかったのだ。とはいえ、彼女の写真が残っているが、決して不細工ではない。大きな力強い目をしていて、意志の強さを感じさせる。実際のカロリーネは大変教養のある人で、敬虔なカトリック教徒だった。
 実はリストもけっこう信心深いところがあった人で、15歳でスランプに陥った時は、音楽家をやめて聖職者になりたいと言い張り父親になだめられている。その後、はじめての失恋を経験した時も、やっぱり聖職者になると言って引きこもってしまったことがあった。
 そんな宗教への思いでも響き合うところがあったのか、リストもすぐにカロリーネのことが好きになり、二人はさっそくヴォロニンスというカロリーネの領地で同棲を始めた。実はその頃のリストは、自らも楽しんでいたはずの演奏会の熱狂が、空しく感じられるようになっていた。だいたい、彼はただの目立ちたがり屋のチャラチャラした男とはワケが違う。ケタ違いの才能を持った芸術家なわけで、そんな彼が行き詰まってゆく自分の創作活動に満足できなくなったのは当然の成り行きだった。カロリーネはリストの気持ちを理解し、演奏旅行漬けの日々を終わらせ、作曲に専念するように勧めている。
 結局、リストは彼女の助言通り演奏旅行中心の生活にピリオドを打ち、かねてから関係があったワイマールの宮廷楽長に就任した。だけど、有名音楽家と侯爵夫人の不倫カップルに対する世間の目は、けっこう冷たかった。また、正式に結婚していない内縁の妻と暮らしていることが、リストの音楽家としての立場に不利に働くこともあった。そんな問題もあって、もともと敬虔なカトリック教徒だったカロリーネはリストと正式に結婚することを強く望んだ。そして長年数々の女性と浮き名を流してきたあのリストも、ここへきて、ついに身を固める決意をするのだ(その後も浮気は浮気で続けるけれど……)。
 ところが、この問題は相当に長引く。そもそも、当時のカトリック教徒は基本的に離婚が認められなかったのだ。だから、二人が結婚するためには、カロリーネとヴィトゲンシュタイソ侯爵の結婚が無効だったと証明する必要があった。カロリーネは「結婚は親に強制されたもの」と訴えさまざまな策を講じたけれど、そう簡単に話は進まなかった。それでも二人はめげずに、やがて正式な夫婦となる日を夢見て、ワイマールでの生活を続けた。
 ワイマールに住んでいた頃のリストの生活は、カロリーネの支えもあって、とても充実していた。《超絶技巧練習曲集》《ハソガリー狂詩曲集》など、彼の代表作が次々と誕生している。そうした作品群を見ると、リストにとってカロリーネという女性がどれほど大切で、支えとなる存在だったのかがわかるだろう。

一結婚式前日の二人を襲った大どんでん返し
 さて、カロリーネとリストが一緒にワイマールに住み始めてから、早くも10年以上の月日が流れた。度重なる申し出にもかかわらず、彼女の結婚問題にはいっこうに進展がなかった。ついに1860年、カロリーネは強硬手段に出た。カトリック教会の本丸であるローマ・ヴァチカンヘ自ら乗り込んでいったのだ。女の一念岩をも通す――カロリーネがヴァチカンにどう訴えたのか詳しいことはわからないけれど、彼女の苦労のかいあって、カロリーネと侯爵の結婚が無効だったことが認められ、ようやくリストとの結婚に許可が下りる。念願の結婚式は、1861年の10月22日、リストの50歳の誕生日に、ローマのサン・カルロ・アル・コルソ教会で挙げることが決定した。
 こうして式の2日前、先にローマに入っていたカロリーネのもとに、仕事でパリにいたリストが到着する。その瞬間、二人は喜びの絶頂にいたはずだ。長年の苦労を乗り越えて結ばれる瞬間は、もう、すぐそこまで近づいていた。式のために、着々と準備は進められ、教会内には飾り付けなども行われた。あとは挙式の時を待つばかりだった。
 ところが――。結婚式の前日、突然、ヴァチカンの使者が乗り込んできた。それはカロリーネと侯爵の結婚無効はやはり認めないという決定で、翌日に控えた二人の結婚をぶち壊すものだった。どうやら、カロリーネの莫大な財産の相続にからむ人間の横やりだった。ヴァチカンからのお達しとあっては、教会側も従わないわけにはいかない。結婚式は即刻中止。すぐに教会の飾り付けも取り外されてしまった。
 万事休す。精根尽き果てたカロリーネは、ついにリストとの結婚を諦めた。そして、神学の研究に身を捧げる決意を固めてしまう。精根尽き果てたのはリストも同じだった。彼もまた1863年、若い頃から何度か望んできた聖職者となる決意をし、ローマの僧院に入る。
 その後、リストは僧院で聖職者としての務めを果たし、神学の研究をしつつ、宗教音楽の作曲に精を出した。この頃から彼は黒い僧服を身にまとうようになり、以降、公の場に出る時はいつもその服装で通している。そうはいっても、自由奔放に生きてきたリストのこと。完全な聖職者というわけでもなく、その後もけっこう派手に音楽活動を続けているし、1875年には故郷ハンガリーのブダペストにハンガリー王立音楽院(フランツ・リスト音楽院)を設立して院長に就任、後進の育成に有り余るエネルギーを注いでいる。
 カロリーネとは、別れた後も手紙を出し会い、時には直接会って、良き友人同士として交流を続けた。若い頃はたくさんの女性だちとの関係を楽しんできたリストだったけれど、やっぱり彼女との間には、ただの男女関係ではなく、夫婦のような深く確かなつながりがあったのだろう。
 ちなみに、彼女が僧院で執筆に専念するようになってから書き上げたという神学の本のタイトルが興味深い。その名も『ローマ・カトリック教会の表面に見られる欠点とその内部にある原因』要するに、ローマ・カトリック教会に対する批判本だ。これは1冊千頁、全24巻にもわたる大著で、彼女はリストとの結婚を果たしてくれなかった教会へのうっぷんを晴らすべく、毎日毎日、せっせとこの本を書き綴っていたことになる。彼女が執筆しているところを想像すると、なんだかちょっぴりこわい……。
 やがてリストは、1886年、娘コジマによりバイロイトに招かれていたが、その地で急に体調を崩し、74歳で急死する。華やかでエネルギッシュで、才能を思う存分使い切った、まさしくスーパースターらしい人生だったといえるだろう。
 リスト死去の知らせを聞いたカロリーネの方も翌年、後を追うようにして亡くなっている。例のカトリック教会の問題をとりあげた大著を仕上げたのは、彼女が亡くなる、わずか2週間前だった。




リストが結婚式を挙げようとした教会
https://de.wikipedia.org/wiki/Santi_Ambrogio_e_Carlo

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