2018年8月11日土曜日

サン=サーンス

『クラシックの作曲家たち』萩谷由喜子(2013)
P154~ サン=サーンス
 1848年の秋にパリ音楽院に入学したサン=サーンスはオルガンと作曲を学び、卒業後18歳でサン・メリメ教会のオルガニストとなった。ここに5年ほど務めた1858年、披に大きな幸運がめぐってきた。聖マドレーヌ教会のオルガニストに任命されたのだ。この教会はパリでもっとも華やかな教区にあってミサや典礼にはパリの名士たちがつめかけたばかりではなく、名エカヴァイユ・コルの手になる大オルガンが備えられていた。彼は以後19年間にわたってこのポストを務め、日曜日ごとに比類のない即興演奏で参会者たちを魅了して、オルガニストとしての名声を轟かせていく。またこの間、披はふたりの後輩音楽家との運命的な出会いも経験した。
 ひとりは、彼がピアノ教師として4年間だけ教鞭をとったニデルメイエール音楽学校の生徒ガブリエル・フォーレである。彼は10歳年下のフォーレの古典への造詣の深さに驚嘆し、師弟の関係を超えた音楽家同士としての友情を育てた。
 もうひとりはスペインから留学してきた若いヴァイオリニストだった。1863年のある日、サン=サーンスは、ようやく髭の生え始めたばかりのこの少年ヴァイオリニストの突然の訪問を受けた。少年は人なつこい口調でサン=サーンスの作品を褒め上げ、僕にもぜひ、ヴァイオリン協奏曲を書いてくださいませんか、と頼むのだった。気をよくしたサン=サーンスはまず協奏曲をひとつと、独奏ヴァイオリンとオーケストラのための華麗な小品『序奏とロンド・カプリチオーソ』を書き、のちにもう一曲『協奏曲 第三番 ロ短調』も書いて彼に献呈する。その若きヴァイオリニストこそ、19世紀ヨーロッパ楽壇を席巻した寵児パブロ・サラサーテ(1844~1908)だった。
 1871年、サン=サーンスはフランク、ラロ、フォーレ、デュボア、ギローらとともに、フランスの作曲家の作品発表機会を確保することを目的とした国民音楽協会を発足させ、自身でも『オンファールの糸車』『フェアトーン』『死と舞踏』といった交響詩を立て続けに発表していった。
 この間、1875年2月3日、39歳の彼は、19歳のマリ・ロール・エミリとノール県の小都市ル・カトーで結婚式を挙げて周囲を驚かせた。マリの兄が彼の生徒という縁だった。その年の暮れに長男が、二年後には次男が生まれたが、ある日、可愛い盛りの長男が自宅の窓から身を乗り出して転落死し、その六週間後、今度は生後七ケ月の次男が肺炎をこじらせて神に召された。この信じ難い悲運は不幸な両親の絆を強固にする結果とはならず、かえってその反対の方向に作用する。もともと、長く母子家庭であったサン=サーンス家に嫁いだマリの立場にはつねに困難がつきまとっていたのだ。1881年、妻と旅行中に突然失踪した彼は、二度と妻のもとに戻ることはなかった。
 実りなくして終わった6年間の結婚生活の途中、1877年の12月にはオペラ『サムソンとデリラ』がワイマールで初演され大きな成功を収めているが、このオペラがフランスではなくドイツで初演されたという事実が物語るように、パリには彼を認めようとしない人々が大勢いた。そのためかパリを離れることの多かった彼は、1886年3月オーストリアのクルディムという町に滞在中、この町の謝肉祭のためにユーモアと皮肉をこめた組曲『動物の謝肉祭』を書き、引き続き同年5月のロンドン滞在中に、オルガンを伴う華麗なオーケストラ作品「交響曲 第三番 ハ短調』をみずからの指揮で初演する。
 1888年に母親が亡くなると、その翌年、彼は突然パリの住居を畳み14年間に及ぶ長い放浪の生活に入った。当初、パリでは、事故死説や精神病院入院説などさまざまな憶測が乱れ飛んだが、実際、彼はカナリヤ諸島の小さな町に偽名で住まっていたのである。その後もスペイン、セイロン、マルタ島、北アフリカ、スイスと外国を転々としながらホテルやペンションの一室で、彼は曲を書き、詩作に耽り、哲学論文を執筆した。『唯物論と音楽』『古代ローマの舞台装置についての覚書』などの論文は、彼の豊かな知識と高い見識をよく物語っている。
 1904年、14年ぶりにパリに家を構えた彼は、この家で忠実な従者のガブリエルとデリラと名づけたピンシャー種の雌犬とともに新しい生活を開始する。だが、旅を求める気持ちはその後もやむことはなかった。
 1921年12月16日、この19世紀フランスを代表する教養人は、何度目かのアフリカ旅行中、滞在先アルジエのホテルで86歳の一生を終えた。



『サン=サーンス』(ミヒャエル・シュテーゲマン/西原稔・訳 音楽之友社1999)

(P56~)
 この作曲家の結婚が、ほどなく崩壊したという指摘はときおり見られる。というのもマリ・サン=サーンスは音楽には格段興味を示さなかったからである(123)。彼女はこのことを強く否認したが(124)、サン=サーンスが音楽的な問題でも母親の権威の言いなりであったことはやはりたしかである。それをよく表わしているのが、月曜演奏会でのチェロ・ソナタ作品32の私的初演に関するシャルル=マリ・ヴィドールの報告である。「ソナタは大成功であった。お客は皆帰った。作曲者は母親と二人だけで幸福そうにしていた。――非常に驚いたことに、彼女からは何の称賛も聞かれない。『あなたは私に何も言うことはないのですか。あなたは満足でないのですか』。するとサン=サーンス夫人はこう冷淡に応えた。『最初の二つの楽章はよかった。でもフィナーレは何の価値もない』。私たちの友人は言葉もなく、母親にお休みなさいを言い、引っ込んでしまった。一週間の間、彼はソナタのことも演奏会のことも話題にしなかった。十日後、彼は母親におずおずと相談した。『私は新しいフィナーレを作曲しました。聞いていただけませんか』。私たちが知っているのはこのフィナーレである」(125)。
 いくつかの伝記的な証言は、この作曲家の大変な子供好きをはっきりと記している。自分の所帯を構えるということが、マリ=ロール=エミリ・トリュフォとの結婚の本当の動機であったように思える(126)。アンドレ(1875年12月生)とジャン=フランソワ(1877年12月生)という息子たちの誕生はサン=サーンスの希望をこのうえもなく満たしてくれた。しかしほどなくして幸福な家庭生活の夢は恐ろしいドラマのなかで木端微塵になった。1878年5月28日火曜日、二歳半のアンドレが誰も見ていない時に、ムシュー=ル=プランス通りの住居(五階)の窓から身をのりだしすぎて転落し、舗道に叩き付けられたのである。しかもそれだけではなかった。その六週間後の七月七日、作曲家の二人目の息子がわずか七か月にしてランス(この子の養育は同地で祖母のマリ=エレーーヌ・トリュフオに委ねられていた)で肺炎のために亡くなったのである。
 サン=サーンスがこの二重の悲劇にどのように反応したのかについての指摘はほとんどない。彼自らがそれについて述べた数少ない資料の1つが、1878年7月18日の友人に宛てた一通の手紙である。これは、この作曲家の冷淡さと言われるものを確証するように見える、きわめて注目すべき資料である。それは四頁にわたる哀悼の文書で、欄外にイラストの書き込みがあり、ユーモアたっぷりの当て擦り、才気煥発な気の利いた言葉が詰め込まれている。「あなたがたは私に心からの哀悼の意を表して下さいました。私もまさしくその思いです。一か月の間に、私は二人の子供を失いました。私は非常に打ちひしがれながらも、喜ばしい気持ちでいるとあなたがたに誓って言えます。私は尻尾を振るような犬ではないのですが、あなたに接吻することをお許し下さい。C・サン=サーンス」(127)。子供が死んだことなどどうでもいいのだろうか。いやむしろ、苦しみを紛らすためにおそらくアイロニーヘと絶望的に逃避しているのだろう。
 サン=サーンスの結婚生活の最後の3年間については、ほとんど何も分かっていない。1881年夏、彼は妻と一緒に保養のために温泉地ラ・ブルブール(La Bourboule)に出かけた。7月28日朝、サン=サーンス夫人は夫のベッドがからなのに気付いた。彼女は事故だと思い、ホテルの従業員に急報して救いを求めた。でもその捜索は無駄だった。数日後、サン=サーンスは手紙で妻に、自分はもう戻らないことを伝えた(128)。これはたしかに法的な離婚にはならなかったが、別離は決定的であった。作曲家は一人、ムシュー=ル=プランス通りの母親のもとに戻った。




https://fr.wikipedia.org/wiki/La_Bourboule#Personnalit%C3%A9s_li%C3%A9es_%C3%A0_la_commune

Le thermalisme

Station thermale, porteurs et baigneuses.

La ville est connue essentiellement comme station thermale.

Le thermalisme bourboulien est spécialisé dans le traitement des affections des voies respiratoires de l'enfant et de l'adulte, de l'asthme, des problèmes de peau (eczéma, psoriasis notamment) ainsi que les troubles du développement de l'enfant.


L'âge d'or du thermalisme, à La Bourboule, reste l'entre-deux-guerres, durant laquelle une clientèle de luxe (émirs, sultans, etc.) venait s'y détendre. L'architecture de l'artère principale de la ville s'en ressent.


Une certaine mélancolie en est ainsi ressortie, avec ce mythe de « l'âge d'or du thermalisme », vantant les fastes de cette période (tapis rouges pour accueillir la clientèle) et accusant la Sécurité sociale d'avoir attiré les classes populaires dans la cité thermale, qui, de ce fait, remplaçaient la riche clientèle à partir des années 1950. Mais, depuis quelques années, la station a encore perdu de son éclat en ayant vu progressivement disparaître les cohortes d'enfants descendant des maisons de soins pour se rendre du printemps à l'automne aux thermes. La politique du gouvernement a été plus contraignante avec les cures depuis la crise mettant ainsi en danger la survie des petites stations thermales comme la Bourboule qui voit toute son activité menacée (commerce, tourisme…).[réf


▲:サン=サーンスの父親は、サン=サーンスが生まれた年に結核で死んでいる。サン=サーンス自身は終生、この呼吸器系統の不治の病に自分もかかることを恐れた。彼が頻繁にパリを離れて北アフリカの温暖で乾燥した地に療養に出かけたのもそのためである。ラ・ブルブールは呼吸器疾患のための温泉療法地として有名であり、そこに何度も出かけていたことだろう。妻のマリも不思議に思わずに付いていった。そしてある朝、目が覚めると夫は「遁走」していて、実母の元に戻った。離婚ではなく、終生の別居を告げられたマリはどんな気持ちでその「手紙」を読んだのだろうか、と、考えてしまう。




(P10~)

 カミーユ・サン=サーンスは、自分白身についての証言や記録によって次のようなさまざまな顔で描かれる。いくつか版を重ねた自由韻の詩集の詩人としての顔、何作かの一幕物や本格的な社交喜劇『アペピ王』の作者として成功して、演劇史にその名を残した戯曲作家としての顔、フランス天文学会の発足メンバーにその名を連ね、火星の運河の研究に関心をもち、ギュスターヴ・アドルフ・イルンの宇宙生成の理論と取り組んだ天文学者としての顔、弁神論、人間の自由、それに時空間のモデルの計測可能性などの問題を巡って『精神主義と物質主義』や『問題と神秘』の論考を著わした哲学者としての顔、植物および動物の細胞組織の類似性に間する自身の研究に基づいて、ジャン=バティスト・ラマルクの分類学とチャールズ・ダーウィンの進化論を擁護した自然科学者としての顔、ボンペ
イのフレスコ画を研究した最初の人々の一人として、論文『古代ローマにおける劇場の舞台装置に関する覚え書き』のなかでフレスコ画を古代の舞台装飾の表現と解釈し、長年にわたるギリシャの壷絵に間する研究に基づいて、フランス学士院の総会で「古代のリラとキタラに問する試論」を講演した考古学者としての顔、あらゆる機会をとらえて異民族や異文化に関する資料を収集した民族学者としての顔、数千通にも及ぶ書簡に挿絵を描き添えて飾り、素早い筆致で人物や風景をデッサンする素描家あるいは漫画家として顔。
 しかしとりわけ音楽家としての顔に対しては、彼に敵対する人々ですらその普遍性には敬意を払わざるを得ない。「全世界の音楽についてサン=サーンス氏ほど精通している者はいない」(1)。音楽学者としてジャン・フィリップ・ラモーやクリストフ・ヴィリバルト・グルックの最初の全集版に尽力し、チェンバロに問する音楽史家として古楽器演奏協会を指導し、さまざまな新聞のジャーナリストとして半世紀にわたって音楽界の出来事を論評した。また、教育者および国民音楽協会の創始者として、フランス音楽の自立に力を尽くし、若い作曲家に作品の上演の機会を与え、ピアニストとして第二帝政および第三共和政のフランスで、聴衆の偏見に対して屈することなく、ベートーヴェン、シューマン、ヴァーグナーの作品を取り上げた。オルガン奏者としても20年にわたって聖マドレーヌ教会で活動し、日曜日の彼の即興演奏には「パリ中の人々」が集まった。指揮者としては自作および他の作曲家の作品を指揮し、当時のほとんどすべての大管弦楽団から客演の招きを受け、作曲家としては――考えられる限りのあらゆる音楽のジャンルで成功して――最初の作品を3歳半の時に(2)、最後の作品は86歳の時に作曲している。ベートーヴェンの死の8年後、「革命児」として生まれた彼は、ストラヴィンスキーの『春の祭典』の初演の8年後、「反動家」として没した。
 19世紀という時代は、このきわめて信じ難いほどに多様な芸術および学問的な関心と活動により、サン=サーンスにすぐれて大きな賛美を寄せただけに、20世紀はまさに彼のこの多面性を激しく非難した。「著者にはきわめて深く掘り下げるべき問題について書くだけの能力が欠けているということを、誰かこの著者(実は、彼自身がそのことをもっともよく知っているのだが)に気付かせることはしないだろうか。『そもそも何で彼は彼にはなんの関係もない事柄に口を出すのか』。失礼、でもそれはみんなにとってなにか関わりがあるのだ」(3)。サン=サーンスは『問題と神秘』の結語でこのように自分の哲学的談義を正当化する。しかし彼を批判する人々は彼のことを、いろんな領域にディレッタント的に頭を突っ込む当代のプロテウス〔ギリシァ神話に登場する、何にでも変身することのできる海神〕(4)で折衷主義者であるとかたくなにきめつける。彼自身は決して学問的な独創性を要求しなかったし、音楽外の研究を「真面目な思考の遊び」(5)としてしか言い表わしていなかったことは、こうした批判を変えるものではなかった。
 心理学的な観点からみると、サン=サーンスがせわしなく次々に「思考の遊び」に駆り立てられたこと(ひっきりなしに数限りなく旅行して外国に滞在したことと同様、立て続けに行なった作品創作も、そのせわしなさの点で一致している)は、明らかに別の意味をもっている。あたかもこの「追い立てられるような逃避」の背後には「無」の恐怖、つまり深い生の不安がひそんでいるかのようである。

「生きること、それは私たちに負わされているように、私たちには余りに重荷で、私たちに多くの苦痛と幻滅と、解決し難い課題をもたらす。
私たちは、それらを軽減してくれるものなしには耐えて行くことはできないのだ。
……そのための手段はおそらく三つある。
悲惨さを蔑視できるほどの非常に大きな気晴らし。
悲惨さを鎮静して満足感を補ってくれるもの。
そして悲惨さを感じなくさせてくれるアルコールだ」(6)。

 逃避は上首尾だ。サン=サーンスの人間性はほとんど驚くほどに伝記作家の追求の手を逃れる。彼のもっとも身近な友人(そもそもこの語句が正当性をもつ限りであるが)ですら、入念に保たれた距離を克服することはできなかった。氷のような感情の冷たさを打ち解けさせたように思える人物は、サン=サーンスの付き人のガブリエル・ジェスランだけであった。それだけに、ガブリエルがほとんどすべての伝記作家から決まって黙殺されたことはますます奇妙である。その理由としては、サン=サーンスのホモ・セクシュアルあるいは少年愛的といわれる性癖に関する風評があったのかもしれない。この作曲家が若い男性に大きな愛着を寄せたことは、この風評にはまさに好都合であった(実際、サンーサーンスの私生活について知られている数少ない事柄は、むしろ性的不感症の人間のイメージと合致している)。


(P34~) [1857年12月].....彼はルイ・ジャム・アルフレッド・レフェビュル=ヴェリの後任として、聖マドレーヌ教会の、1845年にカヴァイエ=コルが設置したオルガンの奏者に任命されている。この仕事は年収三千フランで、パリのオルガニスト職でもっとも重要なものであった。

「偉大な楽器の可能性を存分に利用するためには、この楽器を徹底的に知らなければならない。これと匹敵するような楽器は世界に二つとない。オルガンは無数の変奏を伴う一つの主題だ……それに時がたたなければオルガニストは自分の楽器を『すみずみまで』知ることはできないし、自分で自由自在であるとは感じないだろう。もしも音楽的な問題にせめてもう少し関心をもつ必要を感じて、自分の計り知れないパレットのすべての色を自在に使いたいと思うならば、方法は一つしかない。即興演奏だ。私もマドレーヌ教会でオルガニストをつとめた約20年間、ほとんどいつも即興演奏をして、私のファンタジーの偶然に成り行きをまかせた。それは私の中でもっとも幸運な時代の一つであった」(64)。だから、マドレーヌ教会での20年間において多くの教会声楽作品が作曲されたのに対し、オルガン作品がごくわずかしかないことは格段、驚くべきことではない(65)。しかし日曜日に行なわれた即興演奏はサン=サーンスの名声をパリを越えて広めるものであった。一時はオルガンの二陪席は音楽界の偉人たちが相まみえる芸術家の部屋と化した。クララ・シューマン、パブロ・デ・サラサーテ、アントン・ルビンシュタイン、ローベルト・フランツ、そしてとりわけフランツ・リストらがここに集った。リストはすでに久しい以前から、サン=サーンスと心からの友情関係を結んでいた。リストは彼の『鳥に説教するアッシジの聖フランチェコ』の、オルガンによるトランスクリプションを聞いた後、このように確言した。「サン=サーンスは世界でもっとも素晴しいオルガニストだ」(66)と。
 聖マドレーヌ教会の建築は1770年頃からコンスタン・ディヴリとギョーム・クチュルによって始められた。1806年、ナポレオンー世は建築家のピエール=アレクサンドル・ヴィニョンに、未完成の建物をグラン・ダルメ〔ナポレオンの軍隊〕を讃える記念寺院に改築するよう委託した。そこでマドレーヌ教会は、ギリシャ様式で、コリント式列柱に取り囲まれたペリステュルム〔古代建築の列柱に囲まれた中庭〕様式の、今日にみるホール状の教会の形になった。王政復古によって、この建物にカトリック教会としての元来の機能が取り戻され、やがてマドレーヌ教会はパリでももっとも華やかな教区となり、「パリ中」が典礼につめかけた。そのためにオルガニストの職は、サン=サーンスがジャルディネ
通りの彼の小さな住まいではほとんど果たせなかったような、ある社交的な義務と結び付いた。そこで彼は母と大叔母とともに、高級な八区にあるマドレーヌ教会の近くの、フォブール・サン=オノレ通り168番の建物の5階の、大きくて素晴しい環境のアパートに引っ越した。そこからの広い見晴らしは作曲家の天文学への関心にも新しい可能性を提供し、彼はスイスの技術者のマルク・セクレタンに、小さいながらなかなか性能の良い望遠鏡を取り付けさせている。そのほか彼はこの新しい住まいでも、すでにジャルディネ通りに住んでいた頃から始めていた慣行を続けた。それは週に一度、友人、仲間、客人に開かれる彼のサロンである。「レ・ランディ[月曜会〕」、つまりサン=サーンス家での月曜演奏会は、長い期間にわたりパリの芸術および社交生活における、もっともさかんな出会いの場の一つとなった。
 教会音楽を作曲することはオルガニストとしての職責であったが、歌曲やロマンスは、小さなサークルでしか演奏されない「場合に応じて書かれたもの」である。しかしフランスの首都の公の音楽生活でサン=サーンスを代表するのは、そうこうする間に作曲された三曲の交響曲(67)やピアノ五重奏曲などであった。これらの作品は、ベートーヴェンに倣ったドイツ・オーストリアの音楽家たちのレパートリーに照らしてみると、きわめてありきたりに見えるが、フランスの音楽史の流れの中では革命的な位置を占めていた。「今日、器楽の作曲家には二重の犠牲が求められている。人気と財力の二つの犠牲である。たんに交響曲を書くことによっては有名にならないというだけではなく、この種の作品を演奏会で演奏するには莫大な金もかかる。御覧の通り、ほとんどやる気がなくなる」(68)。それにフランスでは交響曲は、「せいぜいローマ大賞志願者が行なうたんなる手慰みの練習」(69)としか見なされていなかったために、サン=サーンスはピアノ五重奏曲でも怪討な眼差しと拒否に出会わなければならなかった。「若い作曲家の彼はそのころ大きくて困難な問題に見舞われていた。というのはフランスの聴衆が室内楽には敵対的であったのに対し、この天才的な若者はこの『最高の』音楽ジャンルの成功と振興に努めていた」(70)からである。サン=サーンスは交響曲と室内楽を受け入れた最初の(しかも1870年以降の時期に至っても唯一の)フランス人であった。「ドイツ主義」という言葉が、パリで作曲家を非難できるほとんど最悪の言葉であった時代にあって(71)、ライン河の向こうの音楽伝統に対するきわめて公然とした信仰告白は、前代未聞の大胆な振舞を意味した。また、彼が自身の作品でこの伝統を擁護するだけでは十分ではなかった。「ピアニストとして彼はとりわけ、ベートーヴェン、モーツァルト、ウェーバー、シューマンを演奏した。これらの作曲家の作品はそのころパリでは知られていなかった」(72)。ほとんどすべての新作と出演は拒否に見舞われた。「サン=サーンス氏は、専門家を惑わすには、見つけ出した何らかの処方箋に従って、どぎつい和音をピアノで叩き付ければ十分だろうと、誤って思い込んでいる。現在まで、神の思召しによって作曲された彼の作品が首尾よく私たちを納得させたことはまだない」(73)。人々がとりわけ非難したのは、彼の音楽思考の冷淡で、「きわめて計算された」明晰さと強さであった。彼の旋律には「イタリアのベルカントの素朴さ」が欠けており、彼の和声は「凰変わりで混乱し」、彼の音色は「気取っている」(74)。ちなみにこれはフランスでヴィーン古典派の作品に対して行なわれた非難と同じであった。「そうとも、私は古典主義者だ。私はごく小さいうちからモーツァルトとハイドンの精神で育ったのだ」(75)。第一帝政および第三共和政の最初の十年間においては、この古典的な精神は前衛の象徴的な特徴であった。




(P40~)
彼の人生で唯一、教育活動を行なったニデルメイエール学校での四年の間に、彼はとりわけフォーレと心からの友情関係を結んだ。フォーレが後に回想しているところによると、「講義の後、彼はピアノに向かって、巨匠たちの作品の真髄を私たちに示してくれた。それらは、私たちの勉学の厳格に古典的なカリキュラムのために接することのできなかったもので、たとえばシューマンやリスト、ヴァーグナーなど、その当時は何人かの愛好家だけが多少知っているだけの作品であった」(81)。フランスおよびドイツでのサン=サーンスの作品の受容については、ヴァーグナーとの関係が決定的に重要であるため(82)、ここで略述するにふさわしい。1859年9月10日から1861年8月14日までのパリ滞在の期間、ヴァーグナーは何度もサン=サーンスと会った。「そうして私は簡単には理解できないこの若い音楽家の天賦の才と能力を評価するようになった。彼はこの上もなく複雑な管弦楽のスコアを一瞥するだけで、注目に値する記憶力のおかげで、それを暗譜で演奏することができるだけではなく、それが主要主題であろうと副次的な主題であろうと、その各パートも演奏することができた。それは、彼が楽譜を目の前にしていると思われる位に正確であった。その後、私は作品の技術的な事柄に対する彼の驚嘆すべき吸収力はそれにふさわしい創造力と釣合を保っていないことにはっきりと気付いた。彼が常に作曲家としての足場を固めようとしていた間、私はとうとう彼と付き合いがなくなった」(83)。これによってヴァーグナーの側から、二人の作曲家の関係についてのすべてが語られている。



(P70~)
[1888年]12月18日、この作曲家の母は79歳で肺炎のために亡くなった。サン=サーンスは53歳であった。母の死を解放と感じるにしても、また自分の人生を新たに始めるにしてもあまりに年を取り過ぎていた。彼は、フロイトが、あまりに緊密過ぎる母子関係によるノイローゼの一つと鑑定した「精神的幼稚症」の犠牲者である(149)。主治医の強い助言に従って、12月31日、サン=サーンスはパリを後にし、まず南フランスの海辺の保養地タマリス、それから1889年3月から5月までアルジェで鋭気を養った。その間、『アスカニオ』の台本作家のルイ・ガレはこの作品のその後の成り行きについてリットとガヤールと交渉したが、無駄であった。万国博覧会の期間中に計画した上演は実現しなかった。「人々は強い人間を恐れている。キマイラ〔獅子の頭、山羊の胴、蛇の尾をもち、ロから火を吹くギリシア神話上の怪獣〕を飼い馴す人は/いつも嫌われる。/嫌悪は存在する中で最高の表彰だ。/憎しみに値したことを誇りに思え」(150)。これは若い女友達のオーギュスタ・オルメスに書いた詩だが、その辛辣な自意識は、耐え難いねたみと無理解に対する失望を隠すことができない。母がいなかったら、サン=サーンスは、彼の人生を困難なものにしたパリという、飽くことなく犠牲を求める街におそらくしばしば背を向けていたであろう。今や、母はこの世にいない。そこで、彼は背水の陣を敷いた。あまりに多くの辛い思い出と結び付いたムシュー=ル=プランス通りの住居をたたんだのである。彼のわずかな、しかし選りすぐった楽譜コレクション(151)は当分の間、ピアノ製作会社のエラールの倉庫に預け、そのほかの私物はすべてディエプに搬送した――たとえば家財道具、絵、彫像、銅版画、母の肖像画、メダル、文書類、それに全自筆譜(152)と膨大な蔵書である(153)。作曲家は、父の家系の出であり、彼自身、自分の第二の故郷と見なしたこの町に、約2000点もの膨大な所有物を寄贈した
のである。ディップは感謝に満ちてこれを受け入れ、わざわざサン=サーンス博物館を建て、早くも1890年に柿落しし、現在に至っている。
 サン=サーンスはパリからの逃避を長いこと準備していた。1889年10月9日、54歳の誕生日に彼はスペインに向けてパリを離れた。旅行はグラナダとマラガを経て、まずカディスに向かった。この町で11月、二台のピアノのための『スケルツォ』作品87が完成している。この作品は心的な危機の音楽面での証拠であり、サン=サーンスが作曲した中でもっとも驚くべき作品の一つである。彼はこの『スケルツォ』の楽譜をすばらしい表紙面つきで、カディスからパリのデュラン社に送った。すでに11月30日にルイ・ディエメールとエドゥアール・リスレールがシャトレの演奏会で初演し、それはまったく正反対の二つの反応を巻き起こした。「『サン=サーンスは気が狂っている。彼のスケルツォを見てごらん』と一方の人々が叫べば、他方では『いや違う。サン=サーンスは気が狂っていない。彼のスケルツォを見てごらん』と叫んだ」(154)。『スケルツォ』と、「自分は遠く離れた別の環境の中で休息したい」という内容のガレ宛の短い手紙とは、人々がパリにおいてサン=サーンスに関して得た最後の消息であった。やがて人々は、一方では作曲家は海難で溺死したと言い張り、他方ではパリの近くに潜んでいると断言し、さまざまな噂が膨らんでいった。いや遠う。第三者が知りたがったのは、この作曲家が発狂して、ヴィル=エヴラールの精神病院に入るように指示されているということであった(155)。実際は、誰にも知らせずに12月14日、カナリア諸島に向けて乗船し、「シャルル・サノワ氏」の名前――この偽名は彼がその後、場合に応じて用いた――で、ラス・パルマスに家を惜りたのであった。そしてそこで彼は1890年4月までまったく匿名で、世間から離れて暮らした。ルーアンでの『サムソンとデリラ』のフランス初演とオペラ座での『アスカニオ』の初演についての新聞報道を彼は、誰か知らない人のことでもあるかのように約3週間後に読んだ。時間は文学に当てられていた――読んだり、書いたりすることに。ラス・パルマスでサン=サーンスは自由韻の詩を作り、韻文劇の小品といくつかの論文を執筆し、その論文は1890年7月と8月、『ルヴュ・ブランシュ』に『思い出』の題で掲載された。1890年5月、サン=サーンスは再びパリに戻った。しかしそれは帰還ではなく、せわしなく町から町へ、ホテルの部屋から部屋へ、演奏会から演奏会へ、田舎から田舎へと渡り歩く、いわばオデュッセイア〔困難を伴う長ぃ漂泊〕の始まりであった。1904年6月まで14年の間、定まった居住地もなく、あらゆる停泊地も拘束も避けた。
「……故意に孤独にな
ることや他の人々から遠ざかることは、人間関係から生じる苦しみに対する至極当然な防護である」(156)。
「苦しんでいる魂が必要とするのは孤独だ/幸福の寡婦、彼女にはもはや喜びはない/彼女はもはやなにものも恐れず、あまりに大きな不幸によって/運命の苛酷さに対して身を鍛えた」(157)。
そのために旅につぐ旅が続く。1890年12月から1891年3月まで、サン=サーンスはスペインとセイロンに滞在し、1891年4月から6月までマルタ島と北アフリカ、1891年8月はスイス、1891年11月から1892年5月までアルジエにほど近いポワント・ペスカド、1892年8月イタリア……。「彼の旅行は時折、作曲よりも有名であった」(158)。サン=サーンスはフランスの作曲家という信用ある地位を、とりわけこの絶えざる外国滞在によってきっぱりと捨てた。ついでながら、サン=サーンスをその死に至るまで漂泊に駆り立てたこのせわしなさは、強迫観念の特徴をはっきりと示している。80歳の作曲家は旅行の合間に一人の友人にこのように書き送っている。
「断固として人々はふたたびこう主張するだろう。私はただじっとしていることができないのだと。家にいて、まったく落ち着いて作曲する方が私にはずっといいのだろうが、運命はそれを望まないのだ」(159)。
 サン=サーンスの創作活動は外面的な状況とはまったく無関係であるように見える。母の死後、創作力を衰えさせた危機が克服されて以来、一部はきわめて居心地の悪い条件のもとではあるが、ふたたび続々と作品が生まれた――たとえば船のキャビンやコンパートメントの中やホテルの部屋や通りのカフエ、砂浜や散歩中に。

(P104~)
1921年8月6日土曜日、サン=サーンスはディエプのカジノでピアノの夕べを催した。これで本当に演奏会の舞台からお別れである。「私が初めてみんなの前で演奏してからもう75年になる。そして今日がその最後だ」(224)。12月4日、サン=サーンスはいつものように北アフリカで冬を過ごすために、アルジエのホテル・ド・ロアシスに到着した。彼がパリから持ち込んだ直りにくい肺炎はとりあえず彼を心配させるものではなかったが、彼の身体は病気に対して抵抗力を維持するにはあまりに脆弱であった。12月16日、夜のふけた10時半、シャルル=カミーユ・サン=サーンスは亡くなった(225)。12月19日、アルジエの大聖堂で聖別が行なわれ、それから作曲家の亡骸は汽船「ラモリシ于エール号」でマルセイユに向かい、鉄道でパリに運ばれた。12月二24日、サン=サーンスはパリのマドレーヌ教会で国葬が執り行われた後、モンパルナス墓地に埋葬された。
(引用終わり)

 その、マドレーヌ教会で行われた国葬の場に、かつて、40年前に、温泉療養地のホテルに「置き去りにされた」彼の妻も姿を現していた。英語のウィキには以下のようにある。
 40年間、一度も顔を合わせることなく死んでいった「夫」を、マリー・ロール・サン=サーンスがどう思っていたか、葬式の場で何を考えていたかは、今となっては知る由もない。

ウィキより
In November 1921, Saint-Saëns gave a recital at the Institut for a large invited audience; it was remarked that his playing was as vivid and precise as ever, and that his personal bearing was admirable for a man of eighty-six.[110] He left Paris a month later for Algiers, with the intention of wintering there, as he had long been accustomed to do. While there, he died without warning of a heart attack on 16 December 1921. His body was taken back to Paris, and after a state funeral at the Madeleine he was buried at the Cimetière de Montparnasse.[111] Heavily veiled, in an inconspicuous place among the mourners from France's political and artistic élite, was his widow, Marie-Laure, whom he had last seen in 1881.[111]